欠けない月

パラレル・オムニバス小説「ウラミチ」第8話

ぼくらが長い一日をいっしょにすごしたあの日、夫が出張で家にいないというのは彼女の嘘だった。

両手に抱えたたくさんの荷物をひとつひとつ床に置きながら、彼女はここ数日の出来事を淡々と説明した。
あの日渋谷駅で別れ家に帰ると、夫が彼女の帰りを待っていた。妻の様子がおかしいことに感づいていた夫は、丸一日以上家を空けていた彼女を問い詰め、携帯のメールからこれまでのやりとりを全て知った。バッグの中からぼくの愛の言葉が記された原稿を見つけ、目の前で燃やした。ピアスを外して帰ることもしなかった彼女は、見慣れぬピアスをもみ合いの中で奪い取られ、赤いピアスは血のしずくとともに窓から投げ捨てられた。

ふたりの秘密、なくなっちゃった、と彼女はつぶやいた。
これだけはセーターの下にあったから、と星のペンダントをなで、うれしそうに言った。

そして最後に包丁ケースを置いて、言った。
「学校、辞めさせられることになって。荷物ぜんぶ取ってきた。昼間、みんなが来るちょっと前に。ダンナとあたしと先生と三人で話して、手続きしてきた。先生は止めてくれたけど、『家庭の事情』ってことでどうしようもなくって。あ、安心して、あなたの名前は出てないから」
「そんなことはどうでもいいんだ・・・いったいどうして・・・・」
ぼくらの過ちが招く当然の帰結が、早くも現実のものとなり始めている。現実が夢を壊す。彼女の夢が、ひとつ終わった。ぼくらの夢は、やっぱり夢でしかなかった。こんなとき、ぼくはなんて言えばいいんだ。

「それでね、ダンナに最後に一回だけあなたに会うのを許可されて。みんな実習だったでしょ。だからそのへんでぶらぶら買いものして時間つぶして。それで、来ちゃった」
彼女は悲しげに笑い、ブーツを脱いだ。
「いったいなんで、こんな時間まで・・・」時計はすでに0時を回っていた。
「だってあなた、恵比寿からバイクで帰るとき、駒沢通りから山手通りに出てずっと道なりだって前に言ってたじゃない。だから歩いてきたの。すぐだって言ってたじゃない」
「それは原付の話だろ」
「そうだね。まっすぐ歩いててもちっとも着かなくって。初台まで行っちゃって、こいつはさすがに間違ってるなと思って、タクシーに乗ってきたの」
「ばか、方向音痴のくせに。駒場のところで、左にそれるんだよ」
ふらふらと家にあがった彼女を、ぼくは抱きとめた。抱き合うと、彼女の左の耳のガーゼがかさかさとぼくの頬を刺した。ぼくらは、とんだ方向音痴だ。たどり着くのが、遅すぎる。


ねえ、どうせまたろくなもの食べてないんでしょ、と彼女が言った。ごはん、作ったげる。そのあいだ、小説書いてていいよ。
そして彼女はビニール袋から食材を取り出した。料理人のくせに汚い台所だねえと言いながらシンクの中を片付け、料理を始めた。包丁、持ってきてよかったねえと言いながら鶏肉を切り、少し泣いた。

彼女が二つの皿を持ってきた。仲間で合羽橋に行ったときにみんなでおそろいで買ったフライパンで作ったオムライスだった。上手にできた黄色いオムレツの上に白髪ねぎが乗り、周りに茶色いあんがかかり、とてもきれいなオムライスだった。
「あんかけか。中華風?お店で出すならなんてタイトル?」ぼくは聞いた。
「うーん、あんかけオムレツ。和風だってば」日本料理志望の彼女は、少しふくれて言った。
「『あんかけオムレツ和風だってば』か、長いタイトルだな」ぼくは言った。
あの顔文字の顔をして彼女は笑い、ぼくらはオムライスを食べた。中は炊き込みごはんになっていて、とてもおいしかった。とてもおいしくて、ぼくはぼろぼろと泣きながら食べた。
ケーキも買ってきたよと、彼女が言った。小さないちごのタルトとラズベリーのババロアだった。ぼくの家にはケーキを食べるようなしゃれたフォークはなく、パスタのときの大きなフォークでそのケーキを半分ずつ食べた。フォークが大きくて食べづらくて、硬いタルト生地がぼろぼろとこぼれた。だから最後は手でケーキを割り、ふたりでお互いの口に運んだ。タルトの中心にはいちごが丸ごと一個乗っており、彼女はそれを指でつまむと半分かじり、もう半分をぼくの口に入れた。ぼくは赤いラズベリーのソースを指ですくい、彼女がそれを舐めた。


食べ終えて、ふたりでベッドに横になった。不思議と眠くはなかった。
ふと彼女が飛び起きて、慌てて言った。「あぶないあぶない、忘れるところだった」
そしてドアのところに置いた荷物の中から、小さな紙包みを取り出し持ってきた。
「『半月』なんて悲しいタイトルの文章書いてるから。まあるいものを、買ってきたの。プレゼント」
それは、小さな天球儀だった。地球儀のように台座に紺色の球体が据えつけられ、そこにいくつもの星座が描かれている。
「ほんとは月にしようと思ったんだけど。月球儀っていうのもあるのよ」
彼女は2つに折ったカタログを取り出してぼくに見せた。「でもほら月球儀、グレーでなんか怖いの。天球儀のほうがいいかなと思って」
たしかに、その小さな天球儀はまんまるでとても素敵だった。ぼくらは子どものころに戻ったように天球儀をくるくると回し、星座の名前を言いあった。そしてカタログを広げ、火の玉みたいに真っ赤な火星儀を見て笑い、奇妙にグレーな月球儀を指さして「霧の浅瀬」「コペルニクス」「しめりの海」と月の地名を言いあった。

「紺色だけど、この天球儀、ちゃんと光るんだよ」と彼女が言った。
コンセントをつなぎスイッチを入れると、天球儀の中心にあるライトが光った。紺色に塗られた球体は星の部分だけが透明に残されており、シリウスの穴からもれた光がぼくの目を優しく刺した。
「あたしたち、いつもは空の真ん中にいて星を見上げてるわけじゃない。それをこうやって丸く閉じ込めて外から眺める天球儀って、どうやって作るか知ってる?」
そして彼女は部屋の明かりを消した。
「天球儀は、その中心にあたしたちがいるとして、そこから見える星座を球体に写したものなの」
部屋は闇に包まれ、部屋の中心で天球儀が鈍く光り、そこからいっせいに光がもれた。壁や天井や床に、星の穴から放たれた光が優しく刺さった。
ぼくの部屋はドームじゃないし、天球儀は小さなおもちゃだ。星たちはゆがみ、ぼやけて映り、星座の形なんてわかったもんじゃない。しかも壁に映ると星座は逆の形だ。
だけどそれはまるでプラネタリウムみたいだった。ぼくらは天球儀をくるくる回し、移りゆく星の動きを見上げてはしゃいだ。
「あたしたちは、星の中心にいる」と彼女が言った。

星はいい。星は、欠けない。沈んでもまた昇ってくる。ぼくらが地球で見る星の光は何万年も昔のもので、本当はもうその星はこの世に存在しないのかもしれない。でもとうにその星が消えているとしても、ぼくらはそれを知らずにその星の光を眺める。
部屋の中心で光を放つ天球儀は、ぼくらふたりの欠けない月だ。逆さに映った星座は、ぼくらだけの星空だ。そしてぼくらは星の中心にいる。


「ねえ、小説の続き、考えなきゃ」
星空を見上げながら彼女が言った。
「やっぱりあたしの肉を食べる?料理ネタだよ」
「そんなことできるか。だいいち人間のさばき方なんて習ってないよ」
「どんな鳥も同じだって、先生が言ってたじゃない」
「鳥と人間は違うだろ」
くすくすと、彼女は笑った。

じゃあ、こういうのはどう、まるでギリシャ神話よ。あなたがあたしを殺して、そのあとにお腹に赤ちゃんがいたことがわかるの。それであなたも自殺して、あの世で星になって親子三人永遠に幸せに暮らす。

間に合うかな、とぼくは答えた。

彼女が立ち上がり、向こうをむいてするりと服を脱いだ。



ゆがんだ逆さのオリオンが彼女の白い背中に映り、ぼくはリゲルに優しくキスをした。
ぼくは彼女のしめりの海に深く潜った。彼女の丸い乳房は天球儀の光を浴び、満ち、欠け、消え、そして満ちた。
彼女はびくんと体を反らし、胸の間の星のネックレスがきらりと光った。ぼくもすぐに彼女の奥深くで果てた。
彼女はぼくの腰に顔をうずめ、ぼくはまた高まった。彼女の顔を払いのけようとしたが彼女は離れず、ぼくは彼女の喉の奥で果てた。彼女はそれをごくりと飲み干した。ごくりという音が部屋に響き、それを聞いてぼくはまた高まり、また彼女の中に沈み、また果てた。
ぼくらは、何度もお互いの名を呼び合った。それを忘れないように。



抱き合ってしばらくまどろんだ。
どれだけ時間がたったのだろう。
彼女が、天球儀を指でゆっくりと回した。部屋の中の星空がくるりと回った。
プラネタリウムの上映は、夜更けからこうして星空が回り、時間が早送りされ、終わる。

だからぼくらは起き上がり、PCの電源を入れた。

ふたりの物語を終わらせるために。








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