放たれしもの

パラレル・オムニバス小説「ウラミチ」第7話

 妻を、放してください。

 いま妻は完全に冷静さを欠いています。その状態で妻とあなたのコンタクトをこれ以上止めても逆に妻の中であなたが美化され混乱が深まる一方ですので、不本意ながら一時的に妻とあなたとの接触を許可することとします。今後しばらく時間をかけて妻に冷静な判断をしてもらい、あなたと私のどちらを選ぶか決めてもらうつもりです。

 ただ、あなたに本当の覚悟があるのか、聞いておきたいと思います。覚悟がないのならこれ以上我々を惑わせることなく立ち去っていただきたいのです。

 もし妻が最終的にあなたを選べば、妻は今までに築いてきた多くのものを壊し、大事にしている多くの人からの信頼を失うことで、深い傷を負うことになるかもしれません。あなたは、その傷から妻を守ることができるのですか?
 あなたが私から妻を奪えば、その非人道的な行為の報いとして相応の社会的制裁をあなたは受けるかもしれませんが、あなたはそれに耐え妻を守ることができるのですか?

 その非人道的な行為に踏み切ったあなたですから、何も考えずに「できる」とおっしゃるかもしれません。
 しかし、よく考えてください。妻はいま夢を見ているのです。夢であるというのは本人も認めていますが、夢の続きを確かめるためだけに今まで得たものをすべて捨ててもいいかもしれないと思ってしまうほどに冷静さを失っています。ですから今の妻はあなたが言うことはすべて盲目的に信じてしまうでしょう。あなたが「できる」と言えば妻はあなたを選ぶかもしれません。夢の中ではそれでもいいかもしれませんが、時がたち夢が覚めたあとに妻は必ず、おそらくまだ自分でも想像のできない、そしてあなたには決して思いもよらないような、深い深い傷を負っていることに気づくはずです。私は妻を愛するものとしてそのような目にあわせることはできません。
 ですからあなたに本当の意味での覚悟がないのなら速やかに去ってください。妻のためなどという口当たりのよい言葉で濁さずに、覚悟がないことを正直に告げ去ってください。

 覚悟があるとあなたがおっしゃるのであれば、私はあなたから妻を守るために自分の持てるすべてを投げ出して戦います。現実的な表現ではありませんが、あなたと刺し違えても構わないとさえ思っています。

 最後に、今更ですが、現時点では妻は私の妻です。妻の冷静さを取り戻すためにあなたとの接触を許可はしますが、あなたには一層の節度ある行動をお願いいたします。

 妻を、放してください。




突然の、そのたった4キロバイトの電気信号は、どこかのサーバからダイレクトにぼくの胸を刺した。無数の0と1の群れは、一瞬にしてぼくをどこかへ連れていった。


それは、ちょうど3年前のある喫茶店のテーブルだった。
ぼくはそこで妻の浮気相手と初めて対峙した。その男は自信に満ちた表情で言った。俺達は愛し合っているんだ。お前にはもうその資格はない。覚悟はある。ぼくは男の不合理をなじり、自らの正当性を主張し、でも最後には弱々しく言うよりほかなかった。

「妻を放してください」

それはまさに3年前のぼくが言ったセリフだった。いや、そのときに言ったことなんて覚えてはいない。だがぼくも、そう言ったはずだ。あくまで冷静を装い、慎重に言葉を選び、完璧な正論で身を装った。それでも愛という自信に満ち溢れた相手の前で圧倒的な無力感に襲われ、うろたえた。
そしていま、ぼくはまた立場を変えて同じステージに立っている。どこかにうろたえている男がいる。うろたえて、名も名乗るのも忘れ、こう言うしかない。妻を、放してください。

その後ぼくは風の便りに、妻がその男と別れて別の男と付き合い、二度目の結婚を考えるころ男がまた別の女を孕ませ、そして捨てられた、ということを聞いた。
それを聞いたぼくは、哀れむでもなく、同じ運命をたどったことを笑うでもなく、こう思った。

永遠の愛なんて、ない。
同じことは何度でもくりかえす。
人間は何度でも愛を求め、奪い、忘れ、また求める。
そこにはいったい何の意味があるのか。

無数の0と1のくりかえしは、ぼくらがこれまでたどった、そしてこれからたどるであろう、ありふれた出来事の連続をただ指し示していた。



ピンポーン?

インターホンが鳴り、ふとぼくは我に帰った。
うちのインターホンは壊れかけなのか、音が変だ。最後のほうがとぎれ気味でひっくり返って、そう、擬音にするとちょうどピンポーン?って感じなのだ。

ドアの向こうで、クスクスと笑い声がした。


ドアを開けると、彼女が立っていた。

「ホントにこんな音なんだね」と彼女が笑い、左の耳にテープで貼られた白いガーゼを指さすと、言った。


ちぎれちゃった、と。

原稿、燃えちゃった、と。


そして手に持った包丁ケースを少し持ち上げて、なぜだか少し笑って言った。


学校、辞めさせられちゃった、と。








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