彼女は星のネックレスをセーターの中にそっとしまい、ぼくらは別々の道を通って学校に行った。
遠回りして学校に着き教室に入ると、右前の席の彼女はもう机に座り隣の席の女の子と話をしていた。少し恥ずかしそうにうつむいているように見えた。きっと、一夜明け、きのうと同じ服を着ていることが恥ずかしいのだろうとぼくは思った。
だけど、ぼくは知っている。彼女はきのうの彼女と同じではない。左耳には赤いピアスが入り、胸の間には銀の星が眠っている。
授業中にぼくはそっと彼女の方を見た。彼女はみんなに見えないように、髪で顔を覆うようにして耳を隠している。だからだれも気づかない。だけどぼくは知っている。その黒い髪の下には、赤いピアスが暗く光っている。ぼくと同じところに、同じものが。
授業が終わりみんなで学校を出た。やはり彼女は髪で耳を隠すようにうつむき加減で歩いた。だれかが「今日もまた飲みにいきますか」と冗談めかして言った。「カゼ気味だから、今日はやめとく」と彼女が答えた。
それでぼくたちは駅前で解散して、ぼくはいつも原付を置いているガードレールに向かった。だけど今日は朝からふたりで出かけていたから原付はなく、そのまま歩いてタコ公園に向かった。
15分ほどして彼女がやってきて、ぼくに向かって星のネックレスを見せて笑った。ぼくらはタコの足元で抱き合った。左耳のピアスを噛むと彼女はぴくりと震えた。痛いかとぼくが聞くと、ううん、気持ちいい、と彼女は答えた。
それから、人目につかないように恵比寿駅を避け渋谷駅に向かって歩いた。
歩きながらぼくらは小説の話をした。
「あたし、『深い河』っていう小説が好きなの」
「ああ、俺も読んだことある。高校のときに。話はあんまり覚えてないけど、出だしがすごくよかった」
「そうそう、そうなの。妻の余命を医者に言われた夫が絶望してるとき、病院の窓の外で焼き芋売りの車の声がするの。他の人には普通の日常の声なんだけど、その夫には妻の死を宣告されてとまどう自分を小馬鹿にしてるように聞こえるって描いてあるのよ。日常の音も風の音も温度も・・・受け取る側の気持ちによって違うように感じるの」
そして彼女は髪をかきあげ、ぼくだけに赤いピアスを見せてくれた。
「素敵な描写してね」
彼女は言った。
「『深い河』って、人肉食べた人の話だっけ」
「それだけじゃないけど、そこは印象的よね」
「どんな話だっけか」
「戦争で仲間の肉を食べて生き延びて、ずっと長い間そのことに苦しんで生きてる人がいるの。でも、肉を食べられた人の奥さんがいて、その人はそれで他の人が生き延びたことを喜ぶの。地元で嫌われ者だった酔っ払いの亭主が生まれて初めていいことをしたって。だからあなたが戦友の肉を食べて生きてきたこと、今までもそんなに苦しんだんだからもう大丈夫ですよ、って、その苦しみから救ってあげるの」
「どう思った?」
「うーん・・・すべて救われた感。人の肉を食べて生き延びた人の心も、酔っ払って嫌われっぱなしで生涯を閉じたおじさんも、『本人は死んだけどおかげで助かった人がいる』という形で夫の死の知らせを受けた奥さんも・・・奥さんの、『あの人が初めていいことをした』っていう一文でみんなが救われた気がしたよ」
ぼくらは、どうすればぼくらを救うことができるだろうか。
渋谷駅に着いた。
「ねえ、見送るのと見送られるの、どっちが好き?」と彼女が言った。
ぼくは少し考えて、見送るほうがいい、と答えた。見送るほうが、去っていく姿を最後まで見届けることができる。最後まで描写できる。
だからぼくらは彼女が乗るJRの改札で別れた。別れ際に、彼女は泣きながら言った。これでもう30時間いっしょにいるね。いっしょにいると離れられなくなるね。このままあたし、死ねたらいいのに。そうすれば死ぬまでいっしょにいられるのに。
彼女の涙が頬をつたい、星のネックレスにぽとりと落ちた。だからぼくは右手で星の上のその涙をぬぐい、ネックレスを強く引いて彼女を抱き寄せキスをした。握った右手をそのまま軽くひねるとネックレスは彼女の首に静かに食い込み、彼女はびくりと体を震わせた。
人通りの多い南口の改札で、道行く人はぼくらを横目で見た。「おっ、チューしてるよ」とどこかのサラリーマンが言うのが聞こえた。
違う、ぼくは彼女の首を絞めているんだ。
気持ちいい、と彼女はつぶやいた。
次の日の水曜日、会社に行くとぼくは無断欠勤をこっぴどくしかられた。しかられたことをメールで報告すると、午後になってから、「あたしは カゼひいちゃった」と返信がきた。まだ寒い中をあれだけふたりで歩いたんだから無理もない。ぼくは「お大事に」と返した。返事はなかった。
会社が終わり学校にいくと、いつもの友だちが集まって話をしていた。ぼくが挨拶すると友だちの一人が、彼女は休みだって、と言った。さっきメールがきたと。ふうん、そうなんだ、とぼくは答えた。
あんなに学校を楽しみにしている彼女が休んでいるのと、またひとつ月が欠け地平に近くなっているのが、帰り道に少し気がかりだった。
会えないけれど、ぼくは毎日くたくたになって小説を書いている。彼女に読んでほしくて書いている。こうして書いていれば、どこかで彼女は見てくれている。だからぼくはくたくたになって書いた。
でも木曜日も、きのうも、彼女は休んだ。インフルエンザだって、と友だちが言っていた。
金曜日は実習で、日本料理だった。太巻き寿司を作った。日本料理志望の彼女は、きっと残念がるだろう。写真も撮ったし、レシピを作って見せてあげよう。こんどいっしょに作ってあげよう。
でも彼女から、メールがこない。
家に帰りPCをつけると、何通かのメールの中に見慣れないアドレスがあった。
見覚えのない送信者。いや、半分だけ、見覚えがある名前。
急に胸が高鳴り、 ぼくは窓を開け、月を探した。
いままさに東の空から昇ろうとする月は、まっぷたつに割れている。
いつもの携帯のメールのフォントと違う文字で、それはこう始まった。
妻を、放してください。
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