二人だけの秘密

パラレル・オムニバス小説「ウラミチ」第4話

短く言葉を交わすと、ぼくは携帯を切った。何かから身を隠すようにアトレのエレベーターに背を向け、日比谷線の階段を三段下りた。
すると、目の前の駒沢通りの槍ヶ岳へ向かう坂の上に、ぽっかりと浮かぶ月があった。ぼくはさっき月を探して全く逆の方向を見ていた。タコ公園じゃないから、どっちに月があるのかわからなかった。

でも月は今日も一日分欠けている。削れている。


ほどなく彼女が走ってきた。恵比寿駅に背を向けたままでも、終電間際の静かな駅前のざわめきの中では彼女のブーツの音が響いた。
階段の三段上から、彼女がぼくの背中に飛びついてきた。
「ただいま」弾んだ声が言った。
「おかえり」ぼくは言った。

そうしてぼくらは手をつなぎ、どこかへ向かって歩き出した。横断歩道を渡り、自然と学校に向かって歩いていた。
「誰かに見られたら」彼女が言った。
「誰かに見られたら?」ぼくは聞き返した。
彼女はつないだままの左手をぼくのコートのポケットにねじこんで言った。
「寒いのでポケットに手を入れようとしたら、間違ってあなたのポケットに入っちゃったのです、ということにする」
「うっかりだな」
「うっかりです」
二人で笑った。だれもいないのはわかっているから、そのまま学校のほうに歩いた。

ぼくらは学校の近くにある焼肉屋に入った。月曜日のこんな時間で、ほとんど客はいなかった。ぼくらは個室のように仕切りのされた4人席に通され、二人で並んで座った。
おしぼりとビールが運ばれ、肉もオーダーしていないのに七輪がセットされ、そして店員がいなくなるとぼくらはすぐに抱き合った。
彼女の白いうなじをぼくはついに腕の中に抱き、夢中でそれを撫でさすり、そして噛んだ。彼女が切ない声をあげ、七輪がパチパチと静かに音をたてた。彼女がぼくの左耳のピアスをやさしく舐めた。体の左半分が痺れるような感じがして、ぼくはもっと強く彼女のうなじを噛んだ。
気がつくとぼくの手は彼女のセーターの下に潜り、彼女の背中の温度を直に感じていた。見たことはないけれど白い背中だ。ぼくの手が、どんどんと彼女の核心に近づいていく。壊してはいけない壁を、壊していく。ぼくらはそれを止めることができない。

「・・・あのう、ご注文、よろしいですか」

はっとしてぼくらは身を離した。
店員が、ハンディーを持って困ったように立っていた。慌ててぼくは「カルビ」と言った。店員が首をかしげたのでぼくは「二人前」と言い足し、さらに「以上」と言った。何も言わずに店員は去っていった。
ぼくらは、ちょっと離れたまま、見つめあって少し笑った。
カルビの皿が運ばれてきて、彼女がトングで肉を二枚網に乗せると、七輪の音が大きくなった。ぼくらはジョッキを手に取って、今日二度目の乾杯をした。

それからしばらく、ぼくらは黙って酒を飲んだ。彼女は少し落ち着かないそぶりで何度も何度も肉を裏返した。もう満腹なので、肉はうまくもなんともなく、少しずつ網の上で乾いていった。
いつのまにか時計は1時をとうに過ぎ、ぼくは酔いがさめてくるのを感じた。そうだ、ぼくには話すべきことがある。
ぼくはビールをひとくち飲むと、失いかけた頭の中の言葉をたぐりよせ、やっとのことで言った。



きみは、結婚している。
ぼくは、離婚したことがある。妻の浮気が原因で。
ぼくらがいましていることがどういうことかは誰よりもよく知っているつもりだし、その結果が誰も幸せにしないこともよくわかっている。
ぼくらはいっしょにいることはできない。



それだけのことを、ぼくはずいぶんと時間をかけて口にした。 頭の中で何度も何度も練習していたつもりだったのに、どうしてもつかえた。それが酒に酔っているからなのか酔いがさめたからなのか、よくわからなかった。

彼女は声を出さずに泣いた。
ぼくも泣いた。

しばらくして彼女が突然口を開いた。



あたしといると悲しいこと思い出すでしょ
だってあたし奥さんと同じだよ
きっとあたしの言動や行動とかイヤになるよ悲しいでしょ
だから相手があたしだと悲しい思いにさせちゃうからダメなんだよ



それは、彼女が頭の中で何度も何度も練習していた言葉だった。
こぼれるように話す彼女の言葉は、ぼくには句読点が消えて響いた。消えた句読点は、涙になってぼくらの間に流れ落ちる。七輪の上の肉は、返すのも忘れて乾ききり音を失い黒くなり網にこびりついていく。


ぼくらは言葉を忘れ、寄り添って朝まで泣いた。

こうしてぼくらの思い出が乾ききって消えてなくなってしまうのは、いやだ。



始発の時間になり、ぼくらは黙ったまま店を出た。ほかに客はだれもおらず、迷惑そうに店員がレジを弾き、ぼくは1000円札を2枚出してお釣りを受け取った。
外に出ると、もう外は薄明るく、月は沈んでいた。

ぼくらはそのまま黙って日比谷線の階段を下り、がらがらの電車に乗り、ぼくの家に向かった。
ぼくは彼女にどうしても見てもらいたいものがあった。
彼女を家にあげ、散らかった部屋を慌てて片付けると、ぼくはベッドの上に腰かけた彼女にプリントアウトした紙の束を渡した。


それが、ぼくがこうして書いたこれまでの小説だ。


彼女はそれを受け取ると、少し驚いたように、でもどこかわかっていたように、小さくうなづくと読み始めた。ぼくは急に眠気に襲われ、彼女を抱いて布団にもぐりこんだ。ほんとうは彼女に触れることすら許されないぼくには、ぼくの言葉を伝えながら彼女を抱きしめて眠りに落ちることだけで十分だった。
彼女はぼくの首に手を回して横たわり、ぼくの頭の後ろに広げた小説を読んでいる。彼女の唇が、ぼくの左耳のピアスを小さく噛む。ぼくは彼女の涙を首筋に感じながら眠りについた。


目が覚めると、彼女はベッドの脇に腰かけて、頬づえをついてぼくの顔を眺めていた。ぼくが起きたのを見ると、少し笑った。

「ねえ、何度も何度も読んで覚えちゃった」

寝てないのか、とぼくは半分寝ぼけながら答えた。うん、と彼女はうなづいた。手に持った原稿を指さして彼女は言った。

「誤字に注意だよ。第一話のここ、『飲み会の返り際』、字が違うよ。あと第二話、『原付にで』、『原付にて』でしょ」

「・・・原付で、だ・・・・」

そしてぼくは大きなあくびをした。二人で抱き合って笑った。


「ねえ、いつかこの話、本になるといいね、みんなに読んでもらえるといいね」
「そいつは、さすがに無理だ」
「でもみんなに読んでほしい」
「じゃあ、サイトに載せるか」
「うん、たくさん読んでほしい」
「でもうちせいぜい1日100人くらいしかこないからな」
「あたしが1日1000人分、読む」
「1人いれば、それだけでいいんだよ」

ぼくらはキスをした。


ふと顔を離すと、彼女は少し口をとがらせて言った。

「でもみんなに見せちゃうと、あたしだけのものじゃなくなっちゃうじゃん」
「・・・じゃあ、やめとくか」
ううん、と彼女は首を振って言った。
「この原稿、ちょうだい。ここに直筆で、お話の中の1フレーズを使って愛の言葉を書いてあたしにちょうだい。あたしだけの愛の言葉を」


だからぼくは身を起こして、テーブルの上のペンを手にとってある言葉を書いたんだ。

なんて書いたかって?

それは二人だけの秘密だよ。








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