けっきょくその日は彼女はタクシーで帰り、ぼくはひとり原付に乗った。飲酒運転のバイクのミラーの中で、曇った空の中で満月がまだぼんやりと明るく、ぼくはまるで夢を見ているような気持ちで家まで帰った。
次の日はまたいつものように学校の授業があった。ぼくらの教室の席は遠く離れており、学校では休み時間にみんなで集まっていつものように話すくらいしかない。先に帰った友だちと「きのう何時まで飲んでたの」「終電乗り過ごしてタクシー乗っちゃった」「あんたたち、飲みすぎですから」なんてやりとりをする彼女を視界の端で見ながら、やっぱりきのうの満月は夢だったんじゃないかと、ぼくは思った。
そうそう飲んでもいられないから今日はまっすぐ帰ろうという話をみんなでして、休み時間が終わった。
うわの空で栄養学を聞いて授業が終わり、いつものようにみんなで学校を出た。原付にで帰るぼくは恵比寿駅の前でみんなと別れた。
すぐにメールが来た。彼女からだった。
「タコ公園で待ってて (>_<)」
それを見て、あれが二人で見た夢だったんだと気づいた。
ぼくは一人でタコ公園まで歩き、きのうと同じ場所に腰かけた。タコの滑り台のあちらこちらにある落書きをぼんやり眺めながら彼女を待った。きのうとはうってかわってよく晴れた空だった。
10分ほどして、遠くの車の音の中にブーツの音が混じった。
彼女は小走りでやってきて、ぼくの隣にちょこんと腰かけた。そして手に持った切符を見せて言った。
「もう、みんな巻くの大変だった。改札に入らずにバイバイって超怪しいし。でもあたし今日定期忘れちゃって。で、わざわざ切符買ってホームまで行って。もっちゃんたちの電車が先に来たからそこから引き返してきたの。乗らない切符、買っちゃった」
ぼくは「乗らない切符って言葉、なんかせつなくていいな」と言った。
彼女が顔をくしゃりとさせて笑った。その顔を見て、さっきのメールの顔文字みたいだとぼくは思った。携帯のメールのフォントも顔文字も、彼女からくりかえし届けられるうちに彼女自身の文字や顔に見えてくる。ぼくは彼女のことが大好きだ。
タコの足に寝そべって、彼女が言った。
「ねえ、今日も寒いねえ。でもきのうみたいに曇ってないし、風もないからいっか。あたし曇りの夜って嫌い。だって星、見えないじゃん」
「でもきのうの月は、あれはあれでなかなかよかったぞ。雲の切れ間に覗く満月が明るくて、月の周りだけが雲がないみたいにぼんやり光ってて、なんだか月が雲のこっち側で光ってるみたいだった」
ぼくはきのう感じたことをそのままに言った。
すると彼女は目を伏せて言った。
「その表現、いいね。月や雲。ドラマや映画と違ってあたしが小説で好きなところ。主人公の心情なんかが作者の描写しだいでいろんな風に読者に伝えられるとこ。読者が想像を膨らませることができるとこ。ドラマや映画でそれを演出して伝わらせるのは難しいと思うんだけど・・・」
そこで彼女は手を宙に浮かせ、月をひっかくようなしぐさをしてちょっと考えて、次の言葉を続けた。
「文章なら目で見れるでしょ。文字を見て脳で想像するの。その文字・文章が、日常の音だったり、風の音だったり、月の光だったり、雨や雪の温度だったり・・・素敵・・・。だからあなたの文章、好きだよ」
最後のほうはなんだかよくわかんなかったけど、ぼくには彼女の言いたいことがむちゃくちゃよくわかった。けど、かんじんなときにそれをなんて言って伝えたらいいかぼくはよくわからなくなってしまった。
だからぼくは彼女の髪にそうっと触れた。彼女はちょっとびっくりしたようにぼくのほうを見たが、何も言わず目を伏せた。ぼくは彼女の髪に指を通した。彼女の黒い髪はどこかしっとりと、柔らかい布のようにひとまとまりになって優しくぼくの指にからみ、そしてばらばらになって指からすべり落ちていった。すべり落ちる髪のあいだに彼女の形のいい小さな耳があった。流れる雲の合間に見え隠れする月みたいに危うげな耳だった。髪はすぐにぼくの指を離れ、彼女の耳を隠した。
ぼくは彼女の髪にキスしたかった。けれど酔ってもいないのに、恥ずかしくてそんなことできなかった。だからぼくは、彼女の唇にそっとキスをした。彼女がびっくりして逃げていかないように、そうっとキスをした。彼女は逃げず、ぎゅっと目を閉じた。やっぱり、顔文字と同じ顔になった。彼女の唇は彼女の髪と同じように湿っていた。彼女の唇が温かく湿っていたから、ぼくはほっとした。
彼女は小説が好きだと言った。ぼくの文章が好きだと言った。
だからぼくは彼女にキスをしているうちに、小説が書きたくなったんだ。
ぼくが文章を書く理由、それは、そう、ぼくの好きな言葉だ。「私は上手な文章の書き方を2つの目的のために学んだ。よいラブレターを書くためと、よい借金の申し込みの手紙を書くために」。まだ2つ目の域には達してないけどね。
キスを終え、恥ずかしそうに彼女がむこうを向いた。そして突然大きな声で言った。
「ねえ、お店の話、読んだよ。友だちがくる小さな店がやりたいって。あたしもそうなの。6席くらいで。全部自分でやりたいの。和服を着るの。おんなじような店だよ、いっしょにできるよ」
「でも、日本料理志望だろ。俺、イタリアンだし」
「いいじゃん、両方やれば」
「いっか、両方やれば」
そうしてぼくらは抱き合って笑った。それから二人で、将来どんなお店を作ろうかいつまでも話した。ぼくらはおでこをぶつけ合ってから間もないのに、考えていることは驚くほど似ていた。人通りのない小さな裏路地の小さな店で、そこは数組入れば満席になってしまう。ぼくらは同じ店の夢を思い描くことができたし、その夢の中にはぼくら二人がいた。
「で、仕込みが終わったり、客がこなかったら、イチャイチャするの」
「イチャイチャするか」
ぼくらはまた抱き合って、キスをした。とても幸せだった。
ふと見あげると、抱きしめた彼女の黒い髪の向こうにはきのうと同じように月があった。きのうより時間が早いから、少しだけ左のほうに見えた。
その月は、右側が少しだけ欠けていた。
ぼくはなぜだか急に不安になった。
そうだ、ぼくらには忘れていることがある。月は欠ける。夢は、いつか覚める。
彼女は結婚している。
ぼくは離婚したことがある。妻の浮気が原因で。
第3話「壁」へ