台風のため

2004/10/21

昨日の水曜日。台風が近づきつつあるなかで仕事中に携帯に着信あり。学校の担任の先生からでした。

「台風のため、今日の授業は休講です」

やった〜!
会社も台風で早上がりムード。さっさと片付けて、大雨の中ハンズへ買い物にでかけました。地下道を通って。


ハンズでは料理道具コーナーに直行。タミを買いました。タミとは裏ごしに使う、ふるい器みたいなやつです。今までそんなものあまり必要なかったし裏ごしをするときはザルで代用していたのですが、西洋料理はやたらと裏ごししたがるのでこの機会に購入しました。ほんとはシノワがほしいんだけどね、高いから。
あと家にある出刃包丁(魚屋バイト時代に(袋を開けるのに)使っていたもの)が錆び錆びなので、サビトールを購入。
必要なものはその二つだったんですが、ハンズはやっぱりおもしろいですね。いろいろ見て回っているうちについ1時間。ラーメンのスープ作りに便利なだし濾し袋も衝動買いしてしまいました。合計2400円なり。(カード決済。)

台風の来る前に帰宅しようという人の波で帰りの電車は大混雑でしたが、それでも家に帰ってまだ7時半。さっそくタミを使ってお料理をしましょう。
もちろん前回の実習で惨敗したヴィシソワーズ(じゃがいもの冷製スープ)にリベンジ!にんじんのムースのほうは、家で一人で食べるには優雅すぎるのでまたの機会に。おかずは、ヴィシソワーズで余ったたまねぎのみじん切りを使ってハンバーグにすることにしました。
もちろんじゃがいもはシャトーに切ります。うう、難しい・・・。でも、最初より少しはうまくなってきたような。きてないような。やっぱり難しい。
ヴィシソワーズ、今回は失敗しないように慎重に作業を進めます。よし、火はついてるな
炒めたじゃがいもとたまねぎにブイヨンを加えて煮立てて、牛乳を加えてミキサーにかけてタミで漉して、生クリームとコンソメを加え、細心の注意を払って仕上げの塩を加えて・・・うん、なかなかいけるかも?冷蔵庫で冷やします。
ハンバーグは・・・まあ作り方を説明するまでもないでしょう。普通のハンバーグの作り方です。
じゃがいものシャトーの練習なんかをしていたので、なんだかんだ9時すぎまでかかって完成。はたして、ヴィシソワーズ超うまい!みごとにリベンジ成功!!
ヴィシソワーズに頭がいっぱいでハンバーグの付け合わせのことはすっかり頭になかったため、ごはんとハンバーグとスープだけというなんとも中途半端な夕食になってしまいましたが、それでも大満足なのでした。


***


めったにない「半ドン」。家で料理だってできます。本だって読めます。
満腹になったあと、ベッドに腰かけて本を読もうと思ったのですが・・・。
本を開いただけで、いつの間にか寝てしまいました。
気がつくと電気はついたまま、明け方の4時。外はまだ真っ暗ですが、台風も過ぎ雨もほとんど降っていないようです。

6時間も寝ちゃったんだなあ。じゃあ、ちょっと早すぎるけど起きるようか。そうだ、日記書かなきゃね。ヴィシソワーズも成功したし、そのことを書こう。PCの電源をつけました。

でも、ふと思った。
今日ぐらい休んでもいいじゃないか。
せっかく学校が休みで、買い物にも行って、平日に家で夕食が食べれて、早く寝た。台風のおかげで久しぶりにずいぶんゆっくりできたのです。
せっかくだから、台風のため、今日の日記はお休み!

そう思って、すぐにPCの電源を落とし、電気も消してまたふとんにもぐりこみました。


***


次に目覚めたのは7時。ぐっすり寝ると寝起きも爽快です。いつもより早く起きて身支度をしてバイトに行きました。
今の勤務地は高層ビルの最上階。今朝はまだ小雨がぱらついていて眺めが悪かったのですが、じょじょに雨が止み空が明るくなって遠くまで見渡せるようになってきました。もやが晴れ、遠くのビルが見え、山が見え、海が見え。昼ごろになると水平線付近の空から青空が見えてきました。
雲はちょうど東京上空を覆うように最後までおおいかぶさっていましたが、遠くの空はきれいに晴れ、そこから陽の光が待ちかねたように降り注いでいました。
それはまるで水平線のあちこちからたくさんの太陽がいっせいに日の出を迎えたような、なかなかに荘厳な眺めだったのです。


***


台風のおかげで、思わぬよいお休みをとりました。

和食の実習、あるいは和食とは関係ない話

2004/10/22

今日は和食の実習の第一回。過去2回の西洋料理が思いのほかちゃんとした料理だったので、期待も膨らみます。刺身とか食いたいなあ!
しかし実習室に入ると助手さんは、「薄刃包丁を用意して、包丁ケースはしまってくださ〜い」。薄刃とは野菜切り用の包丁です。そりゃそうか。

う〜んでも野菜を切るなら・・・最近ちょっと寒くなってきたし、煮物とかもいいなあ!あとだし巻き玉子とかね!ごはんはくれるのかな?腹減った!!

と勝手な期待は膨らむ一方ですが・・・はたして今日の献立は・・・・。





ポテトチップとチジミ

え〜。
え〜。
和食じゃないじゃ〜ん。

言わないで!それ以上言わないで!画面の向こうでみなさんがずっこけるのが目に浮かぶようです。そりゃあぼくだってずっこけましたよ。


和・洋・中の中でも最も高度な包丁テクを必要とする和食。その第一歩は、とにかく包丁に慣れることなんだそうです。ということで今日はじゃがいもの千切り、薄切りのみ。
千切りにしたじゃがいもを平たく焼いてチジミにします。ほんとはチジミじゃないんだろうけど見た目はチジミそのもの。そして薄切りのほうは油で揚げてポテトチップス。こっちは正真正銘ポテトチップスです。

内心そりゃねーよと思いながらじゃがいもにとりかかりますが・・・ちくしょう、難しいよ〜。
ヘタクソはポテトチップで十分、ということなのでしょうか。

でも意外とチジミ風のじゃがいも焼きはうまかったですよ。正確には、うまかったのはタレとして配られた鳥みそでしたが。前回と同じパターン。
けど鳥みそも、味噌と砂糖を混ぜて水で溶いて煮詰めて鳥のひき肉としょうがとにんにくを入れるだけなので簡単にできそうです。和風チジミ、ちょっとした酒のつまみに最適です。次回ごはん会のときにでもご披露いたします。



さてここで本日のメアリーさん通信。前回のレポートは数多くの人の神経を逆なでしたようで、かつてない反響がありました。これはもう麺こて・ワカレミチを通じて最強の敵キャラといってよいのではないでしょうか。そんなメアリーさん、今日も絶好調です。

ぼくらはでっかい包丁ケースを持って実習室に行きます。でも実習で使うのはそのうちせいぜい2本くらいなので、ケースは実習室の横の棚にまとめて置いておきます。この棚がわりと小さくて、実習のデモンストレーションを見るための陣取り合戦ほどではありませんが、ケースの置き場所にもけっこう苦労します。
実習の途中で、使い終わった包丁をケースに入れてまたもとの場所にしまおうと思ったら・・・ぼくが置いていた場所にだれかのケースが。そこにはもちろん「メアリー」の名。
もう、笑うしかないですね。なんだか、つけねらわれてるような気がしてきました。

じゃがいもの千切りは、かつらむき(巻物みたいに広く薄く切る)にして重ねて細切りにします。かつらむきは、皮をむくのなんかと違って包丁を大きく使うのですごく難しいです。
そんな難しいこと、メアリーさんには当然ムリです。じゃがいもの皮もむけないのにかつらむきなんて、前回り受身もままならないのに雪崩式フランケンシュタイナーを受けるようなものですよ。当然ひとり大幅に時間を食います。

しまいに彼女は言いました。

「この包丁、まだ研いでないから切れないわ〜」

じゃがいもなんて、ものさしでも切れるわ!!

さらに彼女は、見かねて教えてくれていた助手さんに対し、ふてくされて言いました。

「ワタシ手が小さいから、切れない」

あまりの身もふたもない言い訳(しかもタメ口)に、助手さんはキレてどっかに行ってしまいました。

あとポテトチップの揚げ係をまかせたところ、彼女は箸も使えないことがわかりました。さいばしが大きくバッテンになります。ポテトチップがすくえません。箸でつかめなくても網ですくえばいいのですが、なぜか箸で一枚一枚取ることにこだわります。うちの班のポテトチップスは黒こげになりました。


ほかにも気に触る行動多数。初めは「今日もネタになるなあ」と思って観察していたのですが、だんだん気分が悪くなってきたので最後は目をそむけてしまいました。
今日はほとんど切り方の練習で調理はなかったから被害は比較的少なかったのですが、この先授業が進んでいったときのことを想像すると恐ろしいです。クラス替えとか班替えとかはないのでしょうか。1年半この調子だったら・・・。

刺してしまうかもしれません。

包丁砥ぎにいっそう精が出ます。

普通の週末

2004/10/24

土曜日は、バイト先の同僚・チェリーくんの家に行った。彼とはたまたまご近所どうし、歩いて5分くらいのところに住んでいるので何かと仲良くしている。彼の友だちのアスカ嬢が美容師をしており、髪の毛を切ってくれるというのだ。
せっかく髪の毛を切ってくれるというので、お返しにぼくは包丁とじゃがいもを持参して料理をふるまうことにした。このまえ習ったじゃがいもチジミの復習である。
初対面のアスカ嬢は丸出しの宮崎弁がキュートなナイスキャラ、たちまち意気投合してしょっぱなから飲みモードは全開。ちなみにスタートは午後3時。ウォッカ。ロック。

30分ほど飲んで場が暖まったところで、さっそく料理にとりかかる。
ひとんちの台所は使いづらい。チェリーくんの家の台所は幅50センチほどで、流しと一口ガスコンロしかない。まな板を置くスペースすらない。そして酒を飲んで料理をするのはきつい。じゃがいものかつらむき、金曜日よりは上手になったような気がするが、ものすごくぶ厚かったような気もする。
とにかくすぐそこで友だちが酒を飲んでいるのに自分が加われないのがもどかしく、作業がいい加減になる。そしてつい飲みながら作業するのでさらにいい加減になる。
「お店を出したとして、みんなが飲んでいるのに自分は店長としての役目を果たすことができるのか」という問題がまたひとつ浮き彫りになったかたち。
まあ田舎から出てきて手料理に飢えた二人はうまいうまいと言って食ってくれました。鳥みそ超うまい。

食い終わったところでアスカ嬢に髪の毛を切ってもらう。このあたりでみなすでに相当酔っぱらっている。幸いなことに事故はなく散髪も終了。アスカ嬢はもうすぐイギリスに留学して勉強しゆくゆくは自分の店を持ちたいそうである。酔っていてもなかなかに腕は確か。

そして残りのウォッカを飲み干しにかかり、カラオケに突入して大騒ぎ。
どうやって帰ったか覚えていない。まあ歩いて帰ったんでしょうけど。大きな薄刃包丁の柄をカバンからはみ出させていたから、警察に呼び止められでもしたら大変なことになっただろう。考えてみると、飲みながら包丁とか飲みながらハサミとか、けっこう危険なイベントであった。


ウォッカ1本飲むとさすがにきつい。日曜日、3時まで寝ていた。
起きてもまだぼーっとしてマンガを読んだりしていて、日本シリーズが始まるころにようやく活動を開始してテレビを見ながらアイロンをかけたり包丁を研いだりし始める。
で、アイロンをかけて包丁を研いだだけで日曜日が終了。

もう一日くらい休みたいなあ。

半径1メートルの幸せ

2004/10/25

21日に「台風で学校が休みになり、のんびりできた」という日記を書いたら、サイトのフォームメールからメールが届いた。

「台風で死者も出ているというのに、よくそんなことが言えますね」

ぼくはそのメールを読んで、この書き手はものすんごい豊かな想像力の持ち主だなあとすっかり感心してしまった。
ぼくは「期待していたより雨が降らなかった、もっと降ればよかったのに」と書いたわけでもない。「どこぞで台風で観光バスが立ち往生したらしい。こんな雨の中に旅行に行くのがおかしい」と書いたわけでもない。ただぼくの住む東京で、雨のため学校が休みになり、思いがけず転がりこんだ小さな自由な時間について書いただけなのだ。
その小さな話から広げてどこか遠くの水害にまで心を痛める想像力、なんとすばらしいではないか。きっとかような想像力の主は、地球の裏側で起きている食料不足に胸が痛んで食事も喉を通らないほどの優しい心の方なのだ。ひょっとすると、夜になっても西の国で昇っている太陽に思いをはせて眠れないようなこともおありだろう。
返す返すも身の回りのことにしか想像力の及ばない我が身の愚かさよ。かのメールの送り主が匿名であったというのもまた洒落ていて、おそらくそんな想像力の貧しい私に少しでも想像力を働かせることを教えるためにあえて名前を記さなかったのだろうと思わずにはいられないのである。


そう、ぼくなんか自分の身の回りのことしかわからないのだ。

最初に地面がぐらぐらと揺れたとき、ぼくはへべれけに酔っぱらっていた。「酔っぱらっていても気づくほどの初期微動がこれだけ長く続くということは、どこか遠くでたくさん揺れているに違いない」なんて考えていた。それだけ分かればまだ酔ってない証拠なんて話をして、もっと飲んだ。

地震でたくさんの死者が出たというニュースは、ぼくにはピンとこない。だってぼくは生きているから。だれかぼくの大事な人が死んだわけじゃないから。
きっとぼくは幸せなのだと思う。何も不自由することなく、ましてや不自由が存在することにも気づかない。
でも人間なんてみんなそんなもんだ。人の苦しみなんてだれにもわかりゃしない。わかってしまったら、苦しくて生きていけない。遠くで起きている悲惨なできごとには想像力が及ばず、自分の周りの1メートルの幸せだけにひたる。そうでないとバランスが保てない。


でも
ぼくがいま昼間働いている場所は、高層ビルの32階でとにかく眺めはよいが、実は築30年のオンボロビルである。人が歩くと近くのフロアがはんぱじゃなく揺れる。歩道橋で下をトラックが通ったときみたいな感じ。
そこで働き初めてしばらくは、揺れるたびに気味が悪くて恐かった。でもじきに慣れてなんとも感じなくなった。
けど最近また、床が揺れるとぎくりとするようになった。

今日学校で栗ごはんとお吸い物を作った。秋らしくとてもうまかった。
ふとぼくは、自分がそのごはんを食べられないことを考えた。どこかでごはんを食べられずに苦しんでいる人がいることを考えた。電気もガスも通らず交通も遮断され、携帯もネットもつながらず孤立している人のことを。
そう考えると、少し胸が苦しくなった。ネットが繋がらなかったら寂しい。酒が飲めなかったらつまらない。このおいしいごはんを食べられないのは、つらい。

いまどこかに、その不自由に苦しんでいる人がいる。大事な人を失い悲しんでいる人がいる。
足りないぼくの想像力では、きっとその恐怖や不自由や悲しみを本当にわかることなんてできやしない。
でも自分が立っている地面が揺れていることは、手に届く恐怖として実感できる。いまある半径1メートルの幸せがなくなってしまうことに置きかえると、少しだけその不自由も想像がつく。


想像したって、やっぱり目の前のごはんはおいしい。ぼくには、それをできるだけおいしく食べることしかできない。
少し悲しい、おいしい夕ごはんだった。

学びの姿勢

2004/10/26

これまで、学校は実習も座学も興味深い、座学ではとくに外部講師を週替わりで招く「外食産業論」ってのがおもしろい、という話をしましたが、外食産業論の2回目は相当にイタかったです。

タイトルは「子どもの食生活について」とかなんとか。タイトルからしてやな予感がするなーと思ったのですが、はたして登場した講師の格好がとてつもなくイタい。小太りの50がらみのおばちゃんだったのですが、なんとこの人、全身になにやらぬいぐるみを無数にくっつけている。
よく見ると、にんじんとかきゅうりとかしいたけとか牛乳とか。
「みなさん、なんで私がこんな格好してるかと思うでしょう?これはね、にんじんのニンちゃん、きゅうりのキューちゃん、しいたけのシイチャン、牛乳のギューちゃん・・・」
近来まれに見るイタい自己紹介です。
そのぬいぐるみがマグネットになっていて、黒板にくっつけてポスターとかをペタペタ貼っていく。ということはこの人が着ているチョッキは鉄、防弾チョッキかなんか?それともこの人は冷蔵庫?

しかもしゃべりが超イタい。「21世紀は食を選ぶ時代です。食を選ぶことのできる子どもは情報も選べる。知識も選べる。配偶者も選べる。人生を選べます。福という漢字は『ひとくちだね』(一+口+田+ネ・・・)と書きます。一口で食べることは幸福なのです。漢字って奥が深いですね。こういうことをどんどん子どもに教えて、食の大切さを知ってもらわないといけないのです」

ぼくは言語学を勉強していたので、根拠のないエセ語源のこじつけや漢字の語呂合わせで言葉について語る人は大嫌いです。「音を楽しむから音楽なのです、音が苦になってしまってはいけませんネ」なんて言う人は、漢文の教養とギャグのセンスがないことを宣言しているようなものです。

やばいやばいこんな人の話を頭に入れると自分の頭も悪くなる、食を選ぶ時代は授業も選ばないとね、と思ってぼくは10分ほど聞いて早々に無視を決め込むことにしました。といっても講師の脇では助手の人が見張っているので寝るわけにはいきません。
かわりに、授業終了後に提出させられる感想文でも、今のうちに書いときましょうか。

私は好き嫌いがない。食べれないものが全くないのだ。いっしょに食事をしている相手が食べ残しをしているのを見るとかわいそうだなあと思う。例えばトマトが食べれない人がいるとする。その人はおいしいトマト料理を味わう喜びを享受する権利を失っているのだ。トマトが嫌いな人にとってトマトはまずいものなのだからそんな権利がなくなったところでくやしくもないのだろうが、トマトをおいしく食べることができる私はトマトを食べられない人より確実に幸せなのだなんて思ったりする。
ではなぜ自分が好き嫌いのない幸せな人間でいられるのかということを考えると、私は子どものころの食卓を思い出す。母は決して料理の上手な人ではなかったが、必ず三食手作りの料理を作ってくれた。外食をすることも、スナック菓子のおやつを与えられることもあまりなかった。小さなころにバランスよくさまざまな食材を口にして、食べ物を食べる喜びをひとつひとつ覚えたのだろう。母としては特別な教育をしたつもりはなく、自分が小さいころにしてもらったのと同じようにしただけなのだろうが、そのあたりまえのことができなくなっているという現代においては実に恵まれた環境であった。おかげで私は、好き嫌いが多い人よりほんの少しだけ幸せだ。
私がこの学校で学ぼうと思ったのは、自分がおいしいと思う喜びを他人にも味わってもらいたいからだ。だがこれ以上子どもたちの食生活が変化して、好き嫌いが増えていったらどうだろう。私が感じる喜びを、味わってもらうことはできなくなる。それはとても悲しいことだ。
おいしいものを作ること、調理の技術を身に付けることも学校で学ぶ大事な意義である。しかしその味を味わってもらえる社会的な素地を作ることも我々の重要な使命だと感じた。子どもたちから、喜びを奪ってはならない。

ってな感じです。
魯山人の回の感想文とどことなく展開が似てますが、講師が違うんでわかりっこないです。1時間半も作文に集中できたのでなかなかよい出来でした。この内容なら、授業を聞いていなくても絶対にツボは外してないでしょ。


というのが先週の外食産業論の講義でのことでした。
あの講師、いま思い出してもむかつく。学校が始まってまだ半月あまりですが、卒業後に振り返っても間違いなく1年半で最も無駄な講義のひとつだったと思うことでしょう。
まあなんの印象にも残らない授業の連続より、負でもとびきりのインパクトがある講義のほうがよっぽどマシですかね。
なんてむりやりポジっていたところ・・・。

ホームルームで、プリントが配られました。

「先週の外食産業論の授業で、講師の方が店長さんのレポートを模範解答に選びました!印刷してみんなに配るようにとのことです!!」

鼻を膨らませて興奮する担任の若先生。

えええ〜。
選ばれたくね〜。

「店長さん、すごいじゃないですか!!!」

と先生。
ぼくは思わず言ってしまいました。

「いやあ・・・授業も聞かずに感想を書いた甲斐がありました

固まる先生。
みんな、引いてたね。
あーはは。

名前をつけてやる

2004/10/27

お昼休みにバイト先で、新しくきた派遣元の社員って「獣神サンダー大仁田厚子」だよねと言ったらみんなに絶賛された。

「いやー、マスター(昼間のあだ名)って名づけセンスあるよね」とほめられたので調子に乗って、

「これからぼくのことを歩くDNSサーバと呼んでください」

と言ったら、これは通じなかったようでみんなきょとんとしていた。

ふん、ネットワークの知識がないやつらめっ。

生きることの意味

2004/10/28

学校はむちゃくちゃ楽しい。日々、学ぶ喜びに満ち満ちちゃっている。
みんなもそうみたい。夜間生の中には「仕事のあとに通おうと思って入学したけど両立は難しいから9月末で会社辞めました、でも実家だからとりあえず大丈夫」みたいな時間に余裕のある女の子というのがけっこういて、そういう人は昼間もずっと料理をしたりしてるらしい。学校に来れば、包丁砥ぎ場には早く来て包丁を砥いでいる人がずらりと並んでいる。
それはちょっとうらやましい風景だ。ぼくはどんなに急いでも仕事を終えて学校に着くのは6時。授業は6時半からだから、包丁を研ごうと思っても砥石を水につけるだけで終わってしまう。砥石は砥ぐ前に30分水につけないといけないのである。

しょうがないのでぼくは習った料理は土日に作る。昼間も、パソコンに向かって仕事をしているフリをしながら実は実習で習った料理のレシピをまとめたしている。平日も、帰ってからいそいそと包丁を研いだり、研いだ包丁でとりあえず玉ねぎをみじん切りにしてみたり、みじん切りにした玉ねぎでとりあえずミートソースを作ってみたり、そうして気づいたら夜中の3時だったりする。
昼は仕事・夜は学校・夜中は日記という三重生活で息をつく暇もないが、その合間をぬって自習するのもそれはそれでけっこう楽しい。

それにぼくが「楽しい」と言っているのは、座学も含めてなのだ。というかむしろ座学の方が楽しかったりもする。むかし学校で勉強した知識、それこそ小学校の塾で習った「堺の刃物」「燕の洋食器」というのから大学での「フランス語はhを発音しない」まで、すべてが総動員されて、いま生きた知恵として授業に再登場している。ピタリピタリとパズルが組み合わっていくような快感である。
だからものすごく授業がよく理解できるし、楽しい。授業を理解し楽しんでいることでいえば、ぼくは間違いなくクラスで一番。たぶん学年でも一番。始まったばかりでモチベーションが高いということも考えれば、もしかするとぼくは学内で一番学校を楽しんでいる。時間がなくても、集中力でそのハンデを補って一番の座を保っている。と勝手に思い込んでいる。

きょう、来春入学の昼間部生の面接があったらしく若い衆がいっぱい来ていた。自分も面接を受けたのが遠い昔のようだ。あのときは二日酔いで寝過ごして二回連続で面接をドタキャンしたりしたが、折れずに受験していて本当によかった。
料理をやりたいなら学校なんて行かずにお店に入れば?ということをよく言われたが、学びフェチのぼくにはやっぱり学校という空間は合っていたのだと思う。

でも、そうしてイキイキと実習や座学に望み、わかればわかるほど、わからなくなってくることがある。

それは、生きることの意味。


食について学ぶことは、すなわち健康について学ぶことでもある。

いろんな講義で「人はなぜものを食べるのか」という命題が問われる。その問にはまず第一に「生命を維持するため」という答えが与えられる。これが最も根本的なレベルでの食の意味である。次により高い次元の食の意義として「嗜好的な満足を得て楽しむため」というものがくる。そりゃそうだ。そして第三の次元として。先生は口をそろえて言う。「食品の機能性成分がもたらす健康・長寿のため」。ぼくは首をひねる。「そんなもん、いらん」。
栄養学でも食品学でも、それは定説になっている。食べ物を食べることの究極の意味は長寿・健康。長寿・健康こそが人生の最終目的。
あと、食べ物とちょっと離れた科目では酒とタバコ、とくにタバコの害についていやというほど聞かされる。公衆衛生学なんて授業はとくに、食から離れた人間の健康そのものについての講義なので、そういう話題が多い。「タバコを吸うと舌が鈍る」的な説教ではなくて、冷静にタバコの有害性を指摘されまくる。喫煙者は非喫煙者に比べ10年寿命が短い。三大成人病にかかる率が4倍も高い。医学の進歩により平均寿命は延びたが、実は喫煙者の平均寿命はちっとも延びていない、つまり喫煙者は医学の進歩の恩恵をちっとも受けていない。これだけはっきりしたデータが揃ってるのにそれでもタバコ吸いますか?アホですか?
とにかく、受ける講義受ける講義で「生きることの意義は健康で長生きすること」というのが圧倒的なデファクトスタンダードになっているのだ。

授業の内容はすごくよくわかる。楽しい。だけどわかればわかるほど、ぼくはわからなくなってくる。本当に、生きることの意義は健康で長生きすることなのか?


前にも言ったが、ぼくは長生きなんてしたくない。長生きするなら死んだほうがましだ。もっと言うと、痛くないならいま死んだってかまわない。
地震で命を失った人もいるのに、命を粗末にするな?
冗談じゃない、ぼくはむちゃむちゃ自分の命を大切にしている。ものすごく真剣に生きている。死んだ人にも恥ずかしくないくらい楽しんで生きている。謳歌している。

だけど、その楽しみが死によって途絶えてしまうとしても、ぼくはそれをちっとも惜しいと思わない。
むしろ、早く死んで楽になりたいのだ。
何から?

生きること、生きて楽しむことは、果てしなく続く暗い悲しみの海から顔を出そうとする行為のような気がするのだ。そのままだと沈んでしまうから、上がって上がって必死に呼吸をしなきゃならない。だけど掴まるものはなにもなくて、いつまでも泳ぎつづけなくちゃならない。楽しみ続けなきゃならない。
生きていて楽しいけれど、海に放り出されて泳ぎ続けなきゃいけないようにどこか「楽しまされている」ような気がするのだ。そんなのは、つらい。楽になりたい。いつまでも生きていたくなんかない。

こんな考えをするぼくは、異常でしょうか?
だいじょうぶ、別に自殺したいとかいうわけではありません。だって楽しいからね。
だけど楽しければ楽しいほど、わかればわかるほど、人はなぜ生きるのかわからなくなってくるんだ。


考えてるうちにだんだん混乱してきた。

混乱してきたので、先生にからんでみた。
きょうの公衆衛生学の授業で先生が「非喫煙者の死亡者数に比べ喫煙者の死亡者数は3倍です。つまり喫煙者の3分の2は喫煙が原因で死んでいるのです」と言った。
授業のあとに先生のところに行って「その結論は論理的じゃないです。喫煙者と非喫煙者の人工比率を考慮しましたか?それに死亡者数の少ない未成年者は原則的に非喫煙者に含まれるでしょ?ある一定の年齢において、かつ死亡者数じゃなくて死亡率で比較しないと、死因のうちの喫煙が占める割合を推測するデータにはならないと思います。先生は理系なんだから、そういう統計のウソに陥らないでくださいよ」と言った。
慶応の医学部の助手さんかなんかだという先生は、「ごめんなさい」と言った。

いくらごめんなさいと言われても、タバコが体に悪いのは火を見るよりも明らかだ。ぼくはタバコは体に悪いなんてウソだと言いたかったわけじゃない。タバコは体に悪いという事実が、だからなんだと言いたかったのだ。
「いや、いいんです」とぼくは言った。
そうしてタバコを吸いに行った。

来た、見た、食った

2004/10/29

きのうの日記がちょっとネガティブすぎて、「どういじっていいかわからない」感じになってしまったので少しフォロー。

生きることは、ひとつには「いろんなことをわかる」ことのような気がします。わかるというか、つかむというか。
世の中はわからないことだらけだから、ひとつひとつわかっていきたい。つかんでいきたい。でもつかんでもつかんでもつかみきれないほどわからないことだらけなので、ときどき空しくもなるのでしょう。

けど確実に、今日のぼくは昨日のぼくより何かをつかんでいる。「掴まるものはなにもない」と書いたけれど、だからこそ何かをつかもうとしているのだと思う。
生きる意味とは、実は生きる意味を探すことなのかもしれない。

このまま楽しく学んでいけば、いつかわかるかもしれませんね。


***


本日の実習、西洋料理の「だし」の巻。フォンドボー、フォンドボライユ、フュメドポワソン・・・。時間がかかるのでぼくらの作業はなく、ほとんど先生のデモンストレーション。

いろいろあるけどフランス料理のだしはすべて「骨+香味野菜+香辛料」という式で成り立つのです、と先生が黒板に書きました。
それと全く同じことを、ぼくはとっくにラーメン方程式で会得していました。中身はちょっと違うけど。
ほかにも鶏の下処理のしかた・野菜の使い方など、ラーメンのスープの作り方はフランス料理のだしの取り方とかなり通じるものがあるじゃないですか!

「実は骨からラーメンのスープを作るのが趣味なんで、ぼく今日の授業はけっこうわかっちゃうよ」とか、周りの人に鼻高々で自慢しておりました。
教壇にはさまざまな野菜が並んでおります。
「ま〜だいたい野菜のだしはにんじんとかたまねぎだね。料理でにんじんの皮をむいたら、捨てないでビニールに入れて冷凍しとくといいよ。ラーメンじゃなくても、カレーとかでもそういう野菜くずを入れてだしをとるとおいしくなるよ」などとしたり顔で解説します。「へ〜」と感心するクラスメイトたち。
「あれは何の骨?」と誰かが言うので、「ああ、げんこつだね。豚の大腿骨。切ってあるけどほらこの、骨髄のところがだしになるんだよ」。「へ〜」。
そしたら、授業を聞いてびっくり。フランス料理じゃ豚の骨は使わないらしいじゃないですか。あれは牛の骨だって。恥ずかし。

さて授業のほうは、フュメドポワソン(魚のだし)やフォンドボライユ(鶏のだし)はともかくフォンドボー(牛のだし)が3時間でできるわけはないので、煮込むところまで実演して終了。予め作っておいたフォン(だし)を使って、続いてはソース作りの講義。
そしておまちかねの試食タイムは、肉と魚にそれぞれ2種類ずつのソースを添えて味をみるという、なんとも贅沢なお食事。いつもはドタバタと調理や片付けに追われゆっくり試食するどころじゃなかったりしますが、今日はソースまで先生が作ってくれてぼくらは肉と魚をちゃちゃっと焼いただけ。メアリーさんの破壊力も発揮する余地がありません。
ソース・ペリグーという、トリュフをふんだんに使ったフォンドボーベースのソースが濃厚で超ベリグー!

今日もなかなかおもしろかった。でもさすがにフォンドボーとかソース・ペリグーは家で復習できないなあ。ずーっと作っているのを見て最後に試食という、ほとんどカルチャースクールみたいな実習。省略するわけにはいかない大事なデモンストレーションだけど、役に立ったのか立たなかったのか微妙なところです。
でも舌は大満足なのでよしとしよう。

笑えないお笑い

2004/10/30

世は空前のお笑いブーム。だと思う。趣味に「お笑い」を挙げる人も多く、テレビはこぞってお笑い番組。若手お笑い芸人はアイドルのような人気を誇っている。・・・んだと思う。

だと思う、というのは、ご存知のようにぼくはテレビを見ないから。今は新聞も読まないのでテレビ欄もわからない。電車にも乗らないので中吊り広告も見ない。だから本当にお笑いがブームなのかは実感としてはよくわからないのです。

とはいってもたまにはテレビも見ます。全く知らないとカミングアウトして物議をかもした波田陽区のネタもこのまえ初めて見ました。
感想としては・・・別におもしろくないよね。ブームが過ぎたら忘れられる感ありあり。
というか、波田陽区に限らずほとんどの芸人のネタはほとんどがただの「替え歌」集に見える。つまりひとついい「曲」ができたら、あとは「歌詞」を変えるだけ。いつもの曲にのせて、ちょっとおもしろげなセリフを脈絡なくばらまくだけ。ちょっと古いけど(古いのしか知らないので)「なんでだろう」がその最たるものですね。実際に歌だし。
まあその形なら量産もきくしね。でも同じようなことを「悲しいとき〜」と言いながら言うか「どけどけぃ」と言いながら言うかの違いでしかないよなあと思うと、ちっともおもしろくないのです。

それにお笑い番組、これがひどい。ネタの前にあらすじを説明したり、その「歌詞」にすべて字幕をつけてしまうからね。いまのお笑い番組、まるで字幕放送みたい。もしくはフォントを変えさえすればおもしろいと思っている痛いテキストサイトみたい。
そのネタはそうまでしないと笑えないのか。視聴者はそうまでしてもらわないと笑いに気づかないのか。本当におもしろければ字幕なんていらないよね。芸人と視聴者の両方をバカにしてる。
ぼくなんかは「自分の笑う場所は自分で決める」と思うので、どんなにおもしろいネタでも字幕が出た瞬間にすーっと引いてしまいます。

というわけでどんなにブームでも、別に興味はありません、近々のお笑い。もっとこう、演出の力によらず、ワンパターンの使いまわしじゃなく、芸人の想像力が爆発してダイレクトに伝わるようなコントが見たいですね。


と思っていたら。
古いフロッピーディスクを整理していて、「ショートコント」という題名の一本のテキストファイルを発見。
これこそが、前の会社の内定式で店長がらくたろうくんを相方に演じたという幻のコントだ!彼と飲むとときどきあのときの話になって「再現しよう」とか言うのだけれど、残念ながら台本が散逸してしまって再現できないと思われていた伝説のコント!!

押入れの奥から出てきた小学校の文集を眺めるような気持ちで、さっそく見てみました。


エレクトリックコマースのショートコント
「先生と生徒」
昼休みの職員室にて

生徒(らくたろう): コンコン、ガラッ。失礼します。

先生(店長): 失礼だな。

らく: 失礼? (首をかしげながら入る)ちょっといいですか、先生。

店長: なんだ、生徒。

らく: 生徒? なんかムカつくなこの人。

店長: お? なんだその態度は。おまえひょっとして最近話題のキレる中学生か?好きな言葉は「学級崩壊」だろ?

らく: あんたが担任だとそのうち崩壊しますよ。

店長: 先生を襲っても無駄だぞ。先生ナイフ持ってるからな。

らく: あんたが中学生レベルだな。(店長、ナイフでアクション)おおーちょっとかっこいいよ。あー鉛筆削ってる。きゅうりを薄切りにして・・・。危ないからそんなもので背中かいちゃだめ!そんな物騒なものしまってくださいよ。話があるから来たんですから。

店長: あ、そ。ちょっと待ってな、先生すぐに弁当食べ終わっちゃうから。(かきこむ)

らく: そんなに急がなくてもいいですって。

店長: なんて辛いんだこのピザ。

らく: ピザですか? 弁当箱に?

店長: あんまり辛いんで先生目からトウガラシが出たよ。

らく: 気持ち悪いな。


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つ、つまんね〜。

「ショートコント」なんですが、ダラダラと長いんですよ。10分以上。店長日記みたい。
そしてこのあと日光の観光スポットにちなんでネタが展開していきます。オチは「言わ猿」。渋すぎる。


お笑い芸人って、えらいなあと思いました。

一流料理人の条件

2004/10/31

松屋で牛めしが復活したというので食べてみました。390円、微妙な値段。
が、まずいねえ。なんかパサパサして肉のジューシーさがない。これなららんぷ亭の牛丼のほうがよっぽどうまい。
そういえば築地でバイトしているとき、国産牛を使っていまだに牛丼を出している唯一の吉野家というのが場内にあって、それも記念に食べてみた。けど600円もするわりに味がなんかお上品というか、ジャンクな油の魅力が欠けているようなもの足りなさを感じたものです。
いずれにせよ昔の吉野家の牛丼の値段と味は、牛肉の輸入が再開されない限りもう戻ってこないのでしょうか。

実家から、ことあるごとに山のように野菜ジュースが送られてきます。母は「野菜ジュースと牛乳だけ飲んどきゃ人生なんとかなる」と考えているクチです。
同じやつを大量に送ってくるわけではなくて、スーパーで安かったのを買いだめしたとおぼしきマイナー野菜ジュースの各種詰め合わせです。
いきおい家では水代わりに野菜ジュースを飲むという充実野菜生活になります。(とはいっても充実野菜も野菜生活100も高いので、ジュース詰め合わせには入っていません。)これだけ毎日かつ多種の野菜ジュースを飲んでいると、そのうちに微妙な味の違いがわかるようになってきます。
フルーツで甘味をつけているものといないもの、トマト100%のものと野菜ミックスなもの、食塩添加のものと無添加のものの違いなどは言うにおよばず、「むっ、この野菜ジュースは香辛料を使っておるな」なんていうこともわかってきます。「むむむっ、この奇妙な味のアクセントは・・・朝鮮にんじん?」ってなところまではわかりませんが。
成分表示を見ても食塩や香辛料があるかないか程度の差しかない野菜ジュースですが、ものによりけっこう味が違うものです。「効き野菜ジュース」という競技があったら、ぼくはいい線いくはずです。

というわけで、「ひょっとしてぼくってけっこう味覚が敏感なほう?」なんてうぬぼれてみたりもします。一流料理人は舌の感覚が命ですからね。


でも別に味にうるさいわけではなく、高いものでも安いものでも出されたものはなんでも喜んでたくさん食べるのがぼくのいいところなんです。だいいち牛丼や野菜ジュースで舌を語る時点で、安い。
よく「好きなお酒は?」と聞かれます。いつも答えは「度数」です。
二流です。

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